空気公団の描く小さな幸せが好きなんだ、と言う話。
最近、以前ほど音楽を聴いていない。環境音楽だったり、自然に流れている音を聴いていたりする。
時々、激しかったり不思議な感じのものを聴いては、最終的にやっぱり空気公団が良い、となる。
どうして空気公団が好きなのだろうと考えて、何となく、小さな幸せの描き方が好きなのではないかと思った。
そんな感じの話。
時々、激しかったり不思議な感じのものを聴いては、最終的にやっぱり空気公団が良い、となる。
どうして空気公団が好きなのだろうと考えて、何となく、小さな幸せの描き方が好きなのではないかと思った。
そんな感じの話。
目次
LIVE春愁秋思
空気公団のライブDVD、「LIVE春愁秋思」のトレイラー映像。
最初にDVDを見た時に、手作り感と言うか、小さくて丁寧な感じに惹かれた。
どうしても、ライブ映像と言うと、もっと迫力を出そう、カッコ良く見せよう、となりがちで、そう言うのが似合うバンドも沢山ある。ただ、空気公団はそう言うバンドでも無くて、それを分かった上で「小さなこと、ありのままの大きさの良さを伝えよう」って言う映像になっている。
もう一枚のライブDVD、「空風街LIVE」と比べても、一層その感じが強くなっている。
その小さな感じと言うか、そのままの大きさで伝えようとしている姿勢に惹かれているのだと思う。
おくりもの
2006年のミニアルバム「おくりもの」の表題曲はインストなのだけど、ピアノのメロディの後ろで生活音が鳴っている。
元々、空気公団は環境音をよく使っているけれど、日常の音と重なることで、音楽が生活に溶け込んでいく感じがする。アルバムの構成も一番最後に「おくりもの」が来て、何となく空気公団の音が生活に繋がって終わっていく感じ。
何処か、遠い遠い世界を描くような音楽もあって良いし、自分もそう言うものが好きだ。
ただ、それを楽しんだり、良いなと思うにはまず自分の周りにある小さな色んな事が、本当はもっと美しかったり、素敵だったりする事に気付いていないと、何処へ行っても「ここじゃない」と思ってしまうかもしれない。
空気公団は、音楽だけがそこにあるんじゃなくて、いつも、日常の景色と一緒にいる。だから、いつも戻ってきたくなる。
帰ってくる家があるような。そう言う感じがする。
元々、空気公団は環境音をよく使っているけれど、日常の音と重なることで、音楽が生活に溶け込んでいく感じがする。アルバムの構成も一番最後に「おくりもの」が来て、何となく空気公団の音が生活に繋がって終わっていく感じ。
何処か、遠い遠い世界を描くような音楽もあって良いし、自分もそう言うものが好きだ。
ただ、それを楽しんだり、良いなと思うにはまず自分の周りにある小さな色んな事が、本当はもっと美しかったり、素敵だったりする事に気付いていないと、何処へ行っても「ここじゃない」と思ってしまうかもしれない。
空気公団は、音楽だけがそこにあるんじゃなくて、いつも、日常の景色と一緒にいる。だから、いつも戻ってきたくなる。
帰ってくる家があるような。そう言う感じがする。
宮下奈都さんの目線
最近、宮下奈都さんの小説を読むようになった。
「羊と鋼の森」が話題になったのだけど、それより前の「よろこびの歌」「終わらない歌」、デビュー作の「静かな雨」、どれも素敵で、一人称の描き方が凄い。
例えば、「よろこびの歌」は6人の視点から、7つの短編で一つの物語を描いているのだけど、自分の目線からは見えない事が、誰かからは見えていたりする。自分には何も無いと思っていても、他の誰かから見れば、とても色んなものを持っていて羨ましがられている事もある。
現実では中々そう言う事を意識するのは難しいけれど、物語、特に一人称で描かれると見えてくるものがある。
「羊と鋼の森」は調律師の物語だけど、主人公の外村君は調律を通して、今まで見てきたものの美しさに気付く。
その証拠に、ピアノに出会って以来、僕は記憶の中からいくつもの美しいものを発見した。
たとえば、実家にいる頃ときどき祖母がつくってくれたミルク紅茶。小鍋で煮出した紅茶にミルクを足すと、大雨の後の濁った川みたいな色になる。鍋の底に魚を隠していそうな、あたたかいミルク紅茶。カップに注がれて渦を巻く液体に暫く見惚れた。あれは美しかったと思う。
(中略)
きっと僕が気づいていないだけで、ありとあらゆるところに美しさは潜んでいる。あるとき突然、殴られたみたいにそれに気づくのだ。たとえば、放課後の高校の体育館で。
― 羊と鋼の森 (宮下奈都)
自分は自分。その目に映っているものは他の人には見えないのだから、自分に見える景色を大切に。
「羊と鋼の森」が話題になったのだけど、それより前の「よろこびの歌」「終わらない歌」、デビュー作の「静かな雨」、どれも素敵で、一人称の描き方が凄い。
例えば、「よろこびの歌」は6人の視点から、7つの短編で一つの物語を描いているのだけど、自分の目線からは見えない事が、誰かからは見えていたりする。自分には何も無いと思っていても、他の誰かから見れば、とても色んなものを持っていて羨ましがられている事もある。
現実では中々そう言う事を意識するのは難しいけれど、物語、特に一人称で描かれると見えてくるものがある。
「羊と鋼の森」は調律師の物語だけど、主人公の外村君は調律を通して、今まで見てきたものの美しさに気付く。
その証拠に、ピアノに出会って以来、僕は記憶の中からいくつもの美しいものを発見した。
たとえば、実家にいる頃ときどき祖母がつくってくれたミルク紅茶。小鍋で煮出した紅茶にミルクを足すと、大雨の後の濁った川みたいな色になる。鍋の底に魚を隠していそうな、あたたかいミルク紅茶。カップに注がれて渦を巻く液体に暫く見惚れた。あれは美しかったと思う。
(中略)
きっと僕が気づいていないだけで、ありとあらゆるところに美しさは潜んでいる。あるとき突然、殴られたみたいにそれに気づくのだ。たとえば、放課後の高校の体育館で。
― 羊と鋼の森 (宮下奈都)
自分は自分。その目に映っているものは他の人には見えないのだから、自分に見える景色を大切に。
小さなこと
2017年に入ってから、twitterを見ていない。多分、ブログ連動で更新の通知だけはされているはず。
元々、スヌーピーとかやなせ先生のbotをリツイートする位しか使っていなかったのだけど、twitterも含めて、色々と目に入る情報を少なくしようとしている。
最近漸く、「自分は自分だ」と思う様になった。SNSが普及して、無意識に自分と他人を比べる人が増えたんじゃないかと思う。
空気公団は1stアルバムから、ずっと「小さなこと」を歌っている。それは例えばレモンを買いに行こうとか、偶然曲がり角を曲がった先で会えたらいいな、とか。
薄色に誰が映る
きれいなお茶がはいりました
覗き込むその笑顔
映り込んで揺れている
そのとき僕は思うんだ
なんとなく
なんとなく今日の為に
生きてきたかもしれないな
(空気公団 - なんとなく今日の為に)
大きな事をする、遠い所を目指す。それは悪い事ではないけれど、良い事なのかは分からない。
もし、今いる場所が嫌で何か大きなことをしたり、遠い所を目指すのだとしたら、それは多分苦しい道のりになるし、辿り着いた所にも何も無いかもしれない。
普段生きていて起こる事は大抵小さなことだけど、その小さなことの中の美しさだったり面白さを見つけていられたら、その先でもっと大きなことが起こっても同じように楽しめると思う。
空気公団を聴いていて安心するのは、その姿勢がずっと変わっていないから。
いつまでも、目の前だったり、その辺りにありそうなことの美しさ、素敵さを描き続けている。それがもっと大きくなっていったり、空気公団自体がもっと大きくなろうとしていたら、何か焦りや寂しさを感じたかもしれない。そうじゃなくて、例えば韓国や台湾に行っているものの、空気公団の大きさはそのままで色んな場所へ行くようになった、と言う感じがする。
空気公団を聴いて思うのは、「自分は自分」かもしれない。何処へ行っても。
元々、スヌーピーとかやなせ先生のbotをリツイートする位しか使っていなかったのだけど、twitterも含めて、色々と目に入る情報を少なくしようとしている。
最近漸く、「自分は自分だ」と思う様になった。SNSが普及して、無意識に自分と他人を比べる人が増えたんじゃないかと思う。
空気公団は1stアルバムから、ずっと「小さなこと」を歌っている。それは例えばレモンを買いに行こうとか、偶然曲がり角を曲がった先で会えたらいいな、とか。
薄色に誰が映る
きれいなお茶がはいりました
覗き込むその笑顔
映り込んで揺れている
そのとき僕は思うんだ
なんとなく
なんとなく今日の為に
生きてきたかもしれないな
(空気公団 - なんとなく今日の為に)
大きな事をする、遠い所を目指す。それは悪い事ではないけれど、良い事なのかは分からない。
もし、今いる場所が嫌で何か大きなことをしたり、遠い所を目指すのだとしたら、それは多分苦しい道のりになるし、辿り着いた所にも何も無いかもしれない。
普段生きていて起こる事は大抵小さなことだけど、その小さなことの中の美しさだったり面白さを見つけていられたら、その先でもっと大きなことが起こっても同じように楽しめると思う。
空気公団を聴いていて安心するのは、その姿勢がずっと変わっていないから。
いつまでも、目の前だったり、その辺りにありそうなことの美しさ、素敵さを描き続けている。それがもっと大きくなっていったり、空気公団自体がもっと大きくなろうとしていたら、何か焦りや寂しさを感じたかもしれない。そうじゃなくて、例えば韓国や台湾に行っているものの、空気公団の大きさはそのままで色んな場所へ行くようになった、と言う感じがする。
空気公団を聴いて思うのは、「自分は自分」かもしれない。何処へ行っても。
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