あさから。

本の感想、音楽の話、思ったことなど。

「ばいばいかわいかったうない」を読み解く。

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 アルバム「Tabula Rasa」がリリースされたばかりだけど、今更ながら前作「Kodomo Rengou」のラスト「ぼくは正気」について。アルバムの感想の方にも、ちらっと追記してます。

 ※2019年9月16日少し追記。 

 ぼくは正気

 People In The Boxのアルバム「Kodomo Rengou」の最後の曲。自分もそうだったけれど、「すごく好きな曲ではあるけれど、良く分からん」という人が多いんじゃないか、という気がする。「ばいばいかわいかったうない」もそうだけど、こう、全体的に。「いかれたふりするたびに」って言うのも、どういうことだろう?と思ってた。

 今回、新譜の「Tabula Rasa」を聴きながら色々考えてたら、ふいに「あ、これかも」と気付いたので、新譜より先に「ぼくは正気」の話を。

 

ばいばいかわいかったうない

真昼でも暗い森のなか散策するたびに
もう二度とは取り戻せないぼくに会うのさ
ばいばいかわいかったうない 

People In The Box「ぼくは正気」

 この曲の一番良く分からない所。「ばいばいかわいかったうない」って何?ってなる。正確には、「ばいばいかわいかった」までは良いけど、「うないって何?」って思う。1年半思ってた。 

 それが、新譜「タブララサ」を聴いて、一緒にKodomo Rengouも聴き直していたけど、唐突に「ばいばいかわいかったうない」って、「ばいばいかわいかったUNI」なのかも、と気付いた。UNI=UNION、つまり、連合。

「もう二度とは取り戻せないぼくに会うのさ」

 この曲の中で、主人公は暗い森の中へ散策していく。ここで言う暗い森は恐らく自分の中。目蓋を閉じて、目の前の景色を消してしまう。それから、自分の中へ深く立ち入っていく。そうすることで、やっと「もう二度とは取り戻せないぼく」に出会う。

 「もう二度とは取り戻せないぼく」は、今はもう、自分の中にはいなくなってしまった自分のこと。10歳の時には感じられたこと、意味なく信じて出来たことが、20歳になったら出来なくなっている。20歳の時の感覚は段々薄れて行って、30歳になる頃には思い出せないかもしれない。40歳になったら?50歳は?色んな自分が、少しずつ、いなくなっていく。

 そういえば、話は逸れるけど最近米澤穂信さんの小説「さよなら妖精」を読んだ。すごく、ものすごく面白くて大好きなのだけど、「20代の米澤穂信じゃなければ書けない作品」と担当編集の方が書かれていて、確かにそう思った。そういう消えて行ってしまう感覚はあるし、それを閉じ込めることが出来るのが、小説だったり、音楽だったり、「個」が際立ちやすい表現の良い所だと思う。

 

 

子供連合とKodomo Rengou

 それと、アルバムタイトル「Kodomo Rengou」についての話も一緒に。

 「ぼくは正気」で言う「もう二度とは取り戻せないぼく」、今はもう居ない自分、そういう色んな自分を総括して、「子供連合」と呼んでるんじゃないかと。だから、「ばいばいかわいかったうない」は、「ばいばい、愛すべき、今はもういない僕たち」って、そういう言う意味だと解釈してる。

 「ぼくは正気」ってタイトルも、(今の)ぼくは正気(になってしまった)、って意味かもしれない。

人がみんないなくなってしまった 今となっては

目蓋を降ろすと消えゆくものたち それからようやく 息づくものたち

 歌詞を見ながら、この曲は、「自分の中の子供連合にお別れする曲」なのかな、と思った。かつて存在した、そして、今は居なくなってしまった色んな自分たち。今の自分から見れば、それを持っていたころの自分は狂っていたのかもしれない。相対的に見れば、今の自分は正気なのかも。だけど、それが良いのか悪いのかは分からない。

安い狂気に甘んじていかれたふりするたびに

 この歌詞も、かわいかったうない=子供連合だとしたら、良く分かる。いかれたふり、本当に狂ったふり、じゃなくて、「かつての自分のようなふり」だろう。本当は、もう居ない自分は、取り戻せない。狂っていた自分には戻れない。だから、いかれたふりをする。それで、また探してしまう。「正気じゃなかった頃の僕」を。

 それと、この曲の終わり方。最初に聴いた時、「物語から現実へ戻ってきたみたい」って思ったのだけど、「ぼくは正気」の曲中では、「深い森の中へ、子供連合を探しに散策していったぼく」が「子供連合にお別れを告げて、正気になった僕」になった、って言う演出かもしれない。

 だから、アルバムの最後、「ぼく」が子供連合にお別れするのと同時に、リスナーはアルバム「Kodomo Rengou」から現実へ戻っていく。そういうダブルミーニングになってるのかも、と思った。そこまで考えてたら、凄い。

 そう思って聴き直してみると、アルバムの厚みが増した感じがするというか、ライブで波多野さんが「良いアルバムでしょう?(自慢げ)」って言ってて、その時も「YES!」って思ってたし言ったけど、今なら「YES!!!」って言える。インスタライブで新譜を「時間が経ってから評価が上がってくる作品かもしれない」「Kodomo Rengouが大きな花火みたいな作品だったとしたら」みたいなことを言っていたけど、Kodomo Rengouもこれからもっと評価されていくんじゃないか、と思う。多分、まだまだ良く分かってない所沢山ありそうだし。

 

 そんな感じで、新譜「Tabula Rasa」がリリースされたばっかりだけど、前作についての考察を書いてみました。思い浮かんだ時、すごくスッキリした。今日の夕方、ガラッガラの喫茶店でふと思って、帰って来てから聴き直して「あー、これは」と思った。ピープル、何処まででも深みに嵌らせる。

 

追記

1.補足

 追記です。

 これを書いてから、丸一日位はスッキリしていたけど、2日目頃から「あれ、何だこの違和感」ってなり、「これは、何か足りてないぞ」ってなった。何だろう?って考えたら、すごく単純なこと。

 「uni=union」は、早計というか、答えを逆算してるよな

 ということ。この記事書いた後でuniっていう言葉を調べていたけど、英語のuniには、「一つの、単一の、片方の」みたいな意味しか無くて、それ単独で「連合」って意味には、多分ならない。なることもあるかもしれないけど、uniの後に色んな言葉を付けて、union(連合)、universe(宇宙)とかになる。

 あとは、仮にuniをunionって意味だと取るとしても、読みかたは「ユニ」であって、「うない」ではないんだよな、ということ。せめて「ウニ」ならまだ良いんだけど。

 ということで、「もうここまで来たら、波多野裕文的にどう思ってるかは知らん!自分が納得できる解釈を探す!」って言うことで色々調べてみた。

 まず、uniってフランス語でも同じスペルの言葉があって、こっちだと連合に近いような意味になりそうだった。けど、しっくり来なくて、「unie」なら「うない」って読むかな?と思って検索したら、チェコ語で「連合」になるらしい。読みは「うにえ」だけど。でも、聴いてみると、uの発音が「ユ」じゃなくて完全に「ウ」だし、もうそれで良いかということに。まあ、「何故チェコ?」とはなるけれど。

 一応、そこの言い訳としては、チェコと言えば「変身」でおなじみのフランツ・カフカという作家がいて、このまえのすばるでカフカは読むって話をしてはいたので。あと、ドヴォルザークとかいるし。聴いてるか分からないけども。

 

2.窓のこと

  あと、uniについて調べてる中で、どうやらuniはラテン語系の言葉らしい。同じ意味で、ギリシャ系の言葉が「mono」。モノ。

 Kodomo Rengou、白黒の窓がジャケット写真で、窓なのは置いておいて、白黒なのはそこから来てるのかな、と思った。これは流石に深読みし過ぎかもしれないけど。

 

 そんな感じで、少し追記というか、補足でした。最初は「これだ!」とか思ったので、自信たっぷりに「読み解く」とかタイトルにつけちゃったけど、今は「これでいいのだ!」的なノリになってしまってるので、仮説の1つとして読んでもらえれば幸いです。

 それでは!