断捨離と、よろこびの歌。曲がったまんまの自分。
宮下奈都先生の小説「よろこびの歌」の中に、「曲がったまんま」って言葉が出てきて、そこから色んなことを考えたので書いていきます。小説の話は全然してないけれど。
断捨離
最近、物を沢山捨てた。特に、本。最近でこそ電子書籍で買うことが多くなったけど、前に買った本が沢山あって、それを一気に片付けた。
迷わず捨てた本、迷った結果捨てた本、迷って残した本、迷わず残した本。
今、本棚がすっきりして、今の自分にとって必要な本がすぐ手に取れるようになった。
迷った結果捨てた本のなかには、以前の自分が「好き」を通り越して「愛してる」って言っても良い位に思ってたものもある。
「確かに、この本は昔の自分を救ってくれた。感謝してる。けど、今の自分にはもう必要ない」って決心して、1冊ずつ捨てていった。もし今後どうしてもまた読みたくなったら、買い直そうって。
そうして、1冊、1冊って捨てていくと、勢いがついてきて結構な数の本を捨てる事が出来た。好きな著者の本でも、残した本、残さない本があったり。
迷わず残した本は何冊もあるけど、幾つか並べてみると
小説
・よろこびの歌(宮下奈都)
・青の数学(王城夕紀)
・ブランコのむこうで(星新一)
など。宮下先生の小説は、他にも何冊か。王城先生の小説は全部残した。
自分の場合、好きになった小説は結構繰り返し読む。物語を楽しみたい、というよりも、その著者の言葉で紡がれる世界に浸りたい、という表現が正しそうだ。
だから、今後もきっと何度も読み返すであろう本は迷わず残した。
今回は、上に書いた「よろこびの歌」のなかから、「No.1」ってパートの話。
No1.
「十六にして余生だ。」
っていうパワーワードから始まる章。
ソフトボール部のエースだった早希は、肩を壊してソフトボールをやめることになって、何をして良いか分からず十六にして余生を過ごしているような、ぼんやりとした毎日を送っている。そこから物語は始まる。
物語のことはさておいて、後半、早希の友達との会話で、おばあちゃんが死んだときに自分の人生がガックリ曲がった感じがした、って話をする。
「それで、どうやって立ち直ったわけ?」
「立ち直ってないよ。曲がったまんま」
少しセリフは違うけど、そんな話をする。
曲がったままで、今も生きてる。
自分もそうだと思った。曲がって歪んで、その形で生きてる。
曲がったまんま
本とか物を捨てながら、「これは好きだったなあ」とか、「これはそうでもないな」とか。
「好き」って言うのは、多かれ少なかれ人を変える。
人でも、モノでも、何でも。好きな人が出来ても、好きなバンドが出来ても、好きな映画が出来ても。変わる。
それが好きじゃなくなったり、別の何かを好きになったり、好きだけどあきらめざるを得なくなったりした時、更に自分の形は変わる。
曲がるのだ。
曲がって、直らない。直す必要も、大抵は無い。
物を捨てながら、色々やりたいことが頭に浮かんで、「何でそんなことを思うんだろう?」って考えた。
曲がって、曲がった今の自分の望んでることは、以前とはずいぶん違うのかな?とか。
正直、自分でもまだ分かってない。
これはもう、1つ1つ確かめていくしかない。
自分の根本は変わってないと思うけれど、でも、この数年で随分変わったようにも思う。
曲がったままの自分が、もっとまっすぐでありたいと思うのか、思わないのか。
真っ直ぐであろうとして、それが出来るのか出来ないのか。
それも、自分にしか分からない。
引き続き、もっと物は捨てようと思ってるし、思ったことはやってみて、どう感じるかを実験していく。
書くこと、繋がること
書くこと、もそうだ。
久しく文章を書いてなかった。
書くことが嫌いになったわけじゃなくて、書きたいと思うことがなかった。何かを書きたいと思うことが。
音楽も。自分の曲を書きたい、と思うことがここ3年位無くて、作ることはできるけれど、作りたいと思わなかった。
それが、何故だろう。
物を捨てて、浮かんだやりたいことのなかに、「書きたい」があった。
きっと、前から「書きたい」は自分の中にあったのだと思う。
書くことは全然苦じゃないし。
ただ、表層にある色んなものが蓋をして、「書きたい」が表に出てくる前に小さくなって消えてしまっていたのかな、と。
ここまでで1700文字書いてるけど、書き始めた時のテーマって、「そういえばよろこびの歌の中に、曲がったまんまって言葉があったなー」って位で、書きながら繋げていってる。
前にブログを沢山書いてた時は、それが出来てた。
それが出来なくなったから、書かなくなったのだと思う。
今は、何故か分からないけど、またできる。何故だろう。
きっと、何かが繋がったのだ。
自分の中にある、違和感、モヤモヤ、考えていること、思ったこと、感じたこと、それと、記憶の底にあった物語の一部分。
それが繋がって、「書きたい」に変わった。
思ったことや感じたことだけじゃ足りなくて、物語の面白さだけでも足りない。
自分が何か書きたいと思うのは、「繋がった時」だ。
もしかしたら、音楽もそうかもしれない。
自分の感覚が、自分の中にある感覚が、外部の何か―物語でも、歌詞でも―と同じような感覚だと分かった時に、それを知らせたくなる、誰かに。
ただ、それって説明がとてもとても難しいことで、喋って理解してもらえるものじゃないし、きっと書いても理解してもらえないことの方が多い。
だから、今この瞬間から、未来の何処かの地点まで、1人でも共感してくれる人がいるかもしれないって希望にベットしながら書く、そんな感じかもしれない。
そこまで考えてはいないけど、自分の深層を分析してみると、きっとそんな。
そういう訳で、よろこびの歌の話も、No.1の話もあまりしていないけど、今回はここまで。
それでは!