宮下奈都 「ふたつのしるし」感想。 推理小説と恋愛小説は苦手。
今、同じく宮下先生の「窓の向こうのガーシュウィン」を読んでいる途中だったけれど、こっちを先に読み終えてしまったので感想を書いておきます。
感想、と書いたけれどあんまり中身に触れていないかも。特にネタバレは無いです。
目次
ふたつのしるし
宮下奈都さんが2012年から3年かけて連載していた小説。並行して「羊と鋼の森」「終わらない歌」も書かれていたらしい(そう言えば、終わらない歌の感想も書きたい)。帯に「愛の物語」とあり、今まで読んだ宮下作品ではそこをメインテーマにしていたものは無かったので(静かな雨はそうかも・・・?)、ちょっと新鮮だった。
前半と後半で、少しテンポが変わっている気がする。登場人物が大人になるにつれてあえてそうしているのか、3年間かけて書いている内に、宮下先生の中で何か変わっていったのか。
あらすじ
本当は綺麗な顔をしているけれど、目立たない様に、気付かれないように、生きる遥名。生まれつき周囲に馴染めず、蟻の行列や地図を見るのが好きな温之。二人の「ハル」の人生と出会いの物語。1991年の5月から始まり、2011年の3月、震災の日に起こる出来事までを描いている。
登場人物と暖かさ
砂の上の足跡
自分の好きな「砂の上の足跡」と言うお話がある。
「神よ、私があなたに従って生きると決めたとき、あなたはずっと私とともに歩いてくださるとおっしゃられた。しかし、私の人生のもっとも困難なときには、いつもひとりの足跡しか残っていないではありませんか。私が一番にあなたを必要としたときに、なぜあなたは私を見捨てられたのですか」
神は答えられた。 「わが子よ。 私の大切な子供よ。 私はあなたを愛している。 私はあなたを見捨てはしない。あなたの試練と苦しみのときに、ひとりの足跡しか残されていないのは、その時はわたしがあなたを背負って歩いていたのだ」
今まで生きてきて、どういう訳かどれだけ一人になろうとしても、一人になる事は無かった。運が良かったのかもしれないし、単なる偶然かもしれない。ただ、何となく「人は一人にはなれない様に出来ている」と思う。
誰かが傍にいる
宮下先生の物語でも、必ず傍に誰かがいる。「ふたつのしるし」では、温之には健太が、遥名には美香里が。二人とも、一人で真っ直ぐ進む事は出来なかったと思う。解説でも「彼らを丸ごと信頼してくれる他者」の存在に触れている。
創作物は、自分の中の現実と願望の両方を詰め込んで出来ている。100%の希望と言うのは存在しないけれど、「それでも、これは信じていたい」と言う部分が溢れて出て来たものが、心に響いてくるのだと思う。
宮下先生の作品に流れている暖かさや優しさは、多分、いつも「ほんの少しだけ」だ。色んな諦めの上に、そう言うものがわずかに溢れて出てきている。だからこそ、そこが響いてくる。
推理小説が苦手
人間と物語のテンポ
「宮下先生の小説が好きなのは何故だろう」とふと思った。それは、「自分の好きな小説と嫌いな小説の違いは何だろう」と言う問いでもあった。その答えは、「物語を描いている人の考え方が好きかどうか」と言う事だと思った。
自分自身、正直な所それほど物語の構造だったり、どれだけ細かく伏線を張り巡らせているかとか、そう言う事に殆ど興味が無い。それよりも、書き手が「描きたい」と思っていることに自分が共感できるかどうかが大切で、そこがズレてしまうと、どれだけ物語として面白くても好きにはなれなかった。
例えば、SF作品として結構話題になった「ジェノサイド」と言う小説がある。題材も、物語の展開もとても面白かったのだけど、好きになれなかった。味方の日本人兵士が「憎むべき、殺されるべき憎悪の具現化」みたいなものとして描かれていて、そこに人としての何かを感じなかったから。
或いは、「さよならドビュッシー」と言うピアノをテーマにした小説。この作品自体は、面白くて好きになった。続編の「おやすみラフマニノフ」を読んだ時、ネタがほぼ同じと言うのを抜きにしても、ちょっと引っかかりを感じた。その後、同じ作者の「スタート!」と言う映画撮影現場を舞台にした推理小説を読んだ時、頭の方を暫く読んで止めてしまった。毎回、「悪役」と言うシールを貼られた、「悪い事をするためだけに動く」人が出てくるのが、ちょっと嫌だった。推理小説としてはそういう風に割り切った方がテンポが出るし、もっと言うと、実際そういう根っから悪い人と言うのは存在すると思う。
だから、多分自分が推理小説に向いていないのかもしれない。テンポを重視する作風になると、どうしても人の命も心も殺していかないといけなくなる。
宮下作品について
その点、宮下先生の作品はそう言う小説が好きな人から見ると、テンポが遅く感じられるかもしれない。例えば、「羊と鋼の森」なんかは「調律師として生きる事を自覚する」までを描いていて、その先は描かれていない。少年漫画なら、「天才的な音感とセンスを持つ少年が、一流の調律師になっていく姿」を描くだろうけれど、そういうスピード感がない代わりに、速く進むと見落としてしまいそうな色んな事を描いている。
色んな諦め
宮下作品の登場人物は、いつも何かを諦めている。諦める事は大人になることと同義かもしれない。一つ諦める毎に、一つ大人になる。小学生には小学生の、高校生には高校生の諦めがあって、その積み重ねで人は出来ている。
「ふたつのしるし」の温之は生まれつき周りに馴染めず、勉強も出来ない。蟻の行列や地図を眺めるのが好きで、文字は長時間読んでいられない。
だから、健太が貸してくれたロビンソン・クルーソーはいつまで経っても無人島に着かない。無人島を出られないのではなく、無人島に着く前に、漂流さえする前に終わってしまう。
いつも、独特な描写が出てくる。例えば「静かな雨」のユキは地球の自転を知ってから、自分が猛スピードで動いて居ることに耐えられなくなって高熱を出してしまう。「羊と鋼の森」の柳さんは公衆電話の黄緑色を見ると具合が悪くなった。そして、メトロノームに救われた。どうやってそんなことを思いついているのか分からない。
「ふたつのしるし」でも、特に前半の温之は色んな事を知って、色んな事を諦めていく。人が成長することは何かを諦めることなのだと思う。「こっちには行けないから、こっちへ行こう」と。遥名も「やり過ごすための型」を覚えて生きていく。
出会いとエピローグ
?の理由
ここまでは肯定的な事をずっと書いてきたのだけど、実は読み終わった時に「?」となった。「これはどういうお話だったんだろう?」と。
前半は凄く面白い。これが、第3話の2003年に入ってから少しずつ変わっていく。最後まで読んで、「ふむ」となった。
「震災」「男女の出会い」と言うキーワードで、「君の名は。」を思い出した。「君の名は。」を見た時、物凄く感動したのだけど、そう言えばその理由は物語の中身では無くて、「RADWIMPSと新海誠監督が作った」と言う部分だった。だから、ハッピーエンドになって良かったと思った。ラッドも新海監督も、それまで底抜けに明るいことをして来なかったけれど、あの作品で敢えてそれをやった、と言う所が一番自分に響いていた様に思う。
予感と希望
そう考えた時に、自分は物語の「予感」或いは「希望」の部分が好きなのだなと思った。出会いの物語で出会ってハッピーになる事は、段々と予感が消えていって、普通の日常へ戻っていくことでもある。あまり恋愛小説を読まない理由もそこにあるのかもしれないと思った。希望が、予感が収束して行く物語。推理小説と同様に、構造的にあまり自分に向いていないのかもしれない。
物語としても、表現・描写も、素晴らしいと思う。通して読んだ。ただ、自分にはこういう構造はあってないのかもしれない、と思った。あと、いわゆる「バッドエンド」と言うのは、ハッピーエンドにしないことで希望を残しているのかもしれない、なんて思った。そんな事を思えただけでも良かったと思う。あと、歴史物も苦手です(苦手なの多いな)。
それでは。
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